静寂と抑制と レムキンが見た開戦前夜の日本 意外な接点も?

「深い静寂と抑制」――。ナチス・ドイツの侵攻を逃れて欧州を離れたラファエル・レムキンは、米国に渡るため太平洋戦争前夜の日本を訪れた。日本文化に感銘を受ける一方で、静けさの中に人々の「権力への服従」を感じたという。そんな複雑な思いを、死後50年以上たってから出版されることになる自伝に書き残した。
1939年9月、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻して第2次世界大戦が勃発。ワルシャワで法律事務所を開いていたレムキンは5日後に首都を脱出した。
何度も間近で空爆にさらされながら、ほぼ徒歩で2カ月かけ、ソ連軍に占領されていたポーランド東部(現在はベラルーシ西部)の両親の元へ。しかし、一緒に避難するよう説得したものの、両親は地元に残ることを選択し、レムキンはひとりリトアニア、次いでスウェーデンに身を寄せた。
長引いたスウェーデン滞在中に知人の会社を通じてドイツ占領下の欧州各地から新聞を取り寄せ、掲載された当局の行政文書を収集。その分析をもとに後に完成させたのが、渡米後の1944年に出版され、「ジェノサイド」の言葉を生むことになる著書『占領下の欧州における枢軸国の支配』だ。
米国の大学から待ち望んだ招待状が届いたのは1941年初め。西からドイツ軍が迫り、東方のロシア、日本経由で米国に向かうしかなかった。まだ独ソ戦は始まっていなかった。
シベリア鉄道の旅で着いた極東ウラジオストクから48時間かけて敦賀港に渡った。在リトアニア・カウナスの日本領事代理だった杉原千畝(ちうね)が、米国ビザや招待状を持たないユダヤ系などの難民にも大量の通過ビザを発行したのは前年の夏のことだ。乗客らが「浮く棺」と呼んだ小さな船にも、レムキンと同じく欧州からやって来た大勢の難民がいたという。
横浜から米シアトルへの船の出発までには日数があったため、レムキンは桜の季節だった京都を訪れた、と自伝に書いている。敦賀で他の乗客と一緒に入ったレストランで会話中の客にはけして近づこうとしない給仕の奥ゆかしさに感動し、京都では芝居も見物した。横浜では、ホテル内の店に飾られた着物の「美しさと職人の技」に魅入られ、迷いに迷った末に購入した。
米国に向け出航する前夜には、港の波の音を聞きながら「日本人の抑制」と「支配する力」について考えたという。自伝には「(日本人の)一人ひとりは幸せのために奮闘しながら、支配者や宗教、国からは距離をとり、降伏している」と書いた。
シアトルに向かう船中については「有名なキリスト教のリーダーであるカガワがロビーで毎日、熱く世界情勢を語って毎日を過ごしていた」と書いている。協同組合運動家として知られ、「キリスト教遣米使節団」の一員として米国に向かう途中の賀川豊彦のことだ。
賀川は前年、反戦の疑いで拘束されたが、当時の外相松岡洋右の計らいで突然、釈放された。このときの賀川の渡米が、首相の近衛文麿からの対米和平工作の密命を帯びたものだったことは、戦後、賀川自身のほか、仲介した外務省関係者らが書き残している。賀川は、米国ではキリスト教伝道師として広く知られていた。近衛らが秘密で計画したルーズベルト政権への賀川の和平工作は、その年の7月に軍部が南部仏領インドシナに侵攻したことで失敗に終わった。
賀川の側に、渡米の際の船中でレムキンと出会った記録は残されておらず、2人が直接言葉を交わしたかどうかも不明だ。賀川豊彦記念松沢資料館の杉浦秀典副館長は「賀川が前年に拘束されたのは、上海での演説で(日本軍の)南京大虐殺について聴衆に謝罪したことが原因だったんです。もし2人が話し合ったのなら、それだけでも会話は相当深いものになったのではないでしょうか」と話す。